| 文禄2(1593)年、蠣崎慶広(武田信広から5代目)は名護屋で豊臣秀吉、慶長4(1599)年に大阪で徳川家康に会いました。この時姓を蠣崎から松前に改めます。その後、慶長9(1604)年には家康から黒印状が与えられ、蝦夷地における交易の独占を認められました。幕藩体制下に入った松前藩は本州他藩と異なり、藩士への禄に米を用いることができず、主だった家臣には徳川幕府に承認されたアイヌの人たちとの交易権を地域を限って分与しました。これを商場あるいは場所と呼びました。知行主(商場を給された藩士)は、年に1度自らの商場へ船を出し、その地域のアイヌの人たちと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し、その収益でくらしをたてました。その後、知行主はアイヌの人たちとの交易に要する経費、さらに生活費までを商人から借用し、交易によって得た品物を商人に渡して借金の返済にあてました。しかし、商人への借金が増えると、知行主は一定の金額をとって、商場を商人に請負わせるようになりました。これを場所請負制といいます。場所を請負った商人は知行主と同じように商場でアイヌの人たちと交易を行っていました。しかし、元文5(1740)年ころから始まったといわれる長崎俵物(煎海鼠、白干鮑、昆布など)、本州における藍などの換金作物の肥料となる〆粕などの漁獲物の需要が高まると、商人自らが漁業を行うようになります。漁業に進出した商人は漁具の改良、新技術の導入によって、漁獲の増大をはかるとともに、アイヌの人たちを漁場の労働力として使役するようになりました。ここにおいて、これまで生産者・交易者であったアイヌの人たちは漁場に隷属させられた労働者としてくらすことになります。 |
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徳川家康が松前慶広に与えた黒印状。
これにより松前藩は、蝦夷地における交易の独占を認められた
(北海道開拓記念館蔵) |