アイヌの人達とともに

アイヌ文化まで

 本州が弥生時代(やよいじだい)を迎え、その後、古墳時代(こふんじだい)、奈良・平安時代、鎌倉時代(かまくらじだい)と続くころ、北海道は土器を使い、採集(さいしゅう)・漁狩猟(ぎょしゅりょう)を生業とした時代が続きました。続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)の時代、擦文文化(さつもんぶんか)の時代と呼ばれる時代です。地域(ちいき)や研究者によって異なりますが、この擦文文化(さつもんぶんか)の時代は7世紀ころに始まって、12~13世紀ころに終わりを遂(と)げるとともに、アイヌ文化が登場しました。

アイヌ文化につながる擦文文化

 両文化に共通するところとして、一例をあげますと、集落(しゅうらく)がサケやマスが遡上(そじょう)する河川の流域(りゅういき)、あるいは河口につくられるということです。擦文文化(さつもんぶんか)を担(にな)った人たちもアイヌの人たちと同様に、季節になると大量(たいりょう)に遡上(そじょう)してくるサケやマスを主たる食糧(しょくりょう)としていたのでしょう。 擦文時代の集落『おびらたかさごII』小平町教育委員会、一部改変
擦文時代(さつもんじだい)の集落(しゅうらく)(『おびらたかさごII』小平町(おびらちょう)教育委員会、一部改変(かいへん))

オホーツク文化もまたアイヌ文化と関連する

 擦文文化(さつもんぶんか)にほぼ並行(へいこう)して、北海道のオホーツク沿岸域(えんがんいき)を中心にオホーツク文化が形成されます。このオホーツク文化を担(にな)った人たちは、住居内にクマの頭骨(とうこつ)を集積(しゅうせき)していました。クマに対するなんらかの信仰(しんこう)を持っていたものと思われます。アイヌの人たちもまた、クマの霊(れい)送り儀礼(ぎれい)を行った後、頭骨(とうこつ)を住居の外の祭壇(さいだん)に安置(あんち)しました。
 このように、精神文化(せいしんぶんか)においては、オホーツク文化が大いに影響(えいきょう)していると考えられます。
オホーツク文化・モヨロ貝塚の住居跡。左手前に骨塚がある (東京大学常呂実習施設提供)
オホーツク文化・モヨロ貝塚(かいづか)の住居跡(じゅうきょあと)。左手前に骨塚(ほねづか)がある (東京大学常呂実習施設提供)

アイヌ文化の形成

 こうした歴史の流れ、あるいは、現在に伝わるアイヌ文化を見ますと、擦文文化(さつもんぶんか)を担(にな)った人たちがオホーツク文化の影響(えいきょう)を受けながら、アイヌ文化を形成したと考えられますが、その年代などについては、まだはっきりとはしておりません。  近年、北海道南部の上ノ国町の遺跡(いせき)から、16世紀末から17世紀初めごろに使われていたと考えられる、イクパスイと呼ばれるアイヌの人たちの祭具(さいぐ)が出土しており、こうした考古学(こうこがく)の発掘等(はっくつとう)により、古い時代のアイヌ文化の様相(ようそう)が次第に明らかになってくると思われます。 上ノ国町市街地宮ノ沢川右岸地点から出土したイクパスイ (上ノ国町教育委員会蔵)
上ノ国町市街地(しがいち)宮ノ沢川右岸地点から出土したイクパスイ (上ノ国町教育委員会蔵)