アイヌの人達とともに

歴史

  アイヌ文化の成立は12~13世紀ころといわれていますが、私たちがアイヌの人たちを史料(しりょう)のうえで確認(かくにん)できるのはおおよそ15世紀ころからです。そのころ、アイヌの人たちは漁狩猟(ぎょしゅりょう)や植物採取(さいしゅ)を主な生業にしてくらし、また他地域の人たちと交易(こうえき)を行っていました。和人(注)がこの島に住み始めた時期は定かではありませんが、15世紀ころにはその居住地は東は鵡川(むかわ)、西は余市(よいち)まで広がり、現在の函館付近には若狭(わかさ)(福井県南西部)から商船(しょうせん)が来航(らいこう)し、問屋(とんや)や鍛冶屋(かじや)も設(もう)けられていました。蝦夷地(えぞち)(北海道)からは蝦夷三品(えぞさんぴん)と呼ばれていた昆布、干サケ、ニシンや北蝦夷地(きたえぞち)(樺太(からふと)、現サハリン)を経由(けいゆ)した中国産品などが移出(いしゅつ)され、本州からは鉄製品(てつせいひん)、漆器(しっき)、酒などがもたらされました。アイヌの人たちは本州へ移出(いしゅつ)される品物の直接、間接の生産者であり、交易者(こうえきしゃ)でした。

注) 和人:明治以前においては、本州から渡来してきた人たちをいい、現在は、日本のなかで一番人数の多い人たちを、アイヌの人たちと並べて呼ぶときの呼び名です。

アイヌの人たちとの妥協

  康正(こうせい)2(1456)年、アイヌの若者が注文した小刀をめぐって志苔(しのり)(現在の函館)の鍛冶屋(かじや)と口論(こうろん)となり、鍛冶屋(かじや)がその小刀で若者を刺(さ)し殺したことをきっかけに、翌年にはコシャマイン親子が立ち上がりました。和人の増加(ぞうか)に伴(ともな)い、そのうちの有力者は領主化(りょうしゅか)し、その拠点(きょてん)は舘(たて)と呼ばれています。渡島半島南端部(おしまはんとうなんたんぶ)には12の舘(たて)が点在していました。コシャマイン親子はこれらの舘(たて)を次々に破り、2つの舘(たて)を残すだけになりました。残った舘(たて)の一つ花沢舘(はなざわたて)(舘主 蠣崎(かきざき)季繁(すえしげ))の客将(きゃくしょう)であった武田信広はだまし討ちでコシャマイン親子を破り、全滅(ぜんめつ)の危機(きき)を脱しました。この功績(こうせき)で武田信広は蠣崎家(かきざきけ)を継(つ)ぎ、後の松前家の祖(そ)になります。しかし、アイヌの人たちと和人の戦いは、その後、約100年にわたって断続的(だんぞくてき)に行われました。これらの戦いのいくつかは蠣崎氏(かきざきし)がその統率者(とうそつしゃ)をだまし討つことによって終わらせたものもあります。長期に及ぶ戦いの起因(きいん)はアイヌの人たちと和人の間の政治的あるいは経済的な不和(ふわ)にあったと考えられています。蠣崎氏(かきざきし)は和人に対する支配者としての地位を固め、本州からやって来る商船(しょうせん)からの徴税権(ちょうぜいけん)を確保(かくほ)していきましたが、政治的そして軍事的に安定したものではありませんでした。天文(てんぶん)19(1550)年、「夷狄(いてき)の商舶往還(しょうはくおうかん)の法度(はっと)」を定め、アイヌの人たちの懐柔(かいじゅう)と妥協(だきょう)をはかりました。これによって、アイヌの人たちの長(おさ)2人をそれぞれ現在の上ノ国と知内(しりうち)に住まわせ、両地をもって以北(いほく)をアイヌの人たち、以南(いなん)を和人の居住域(きょじゅういき)とし、本州商船(しょうせん)から徴収(ちょうしゅう)した税(ぜい)の一部をそれぞれの長(ちょう)に分配(ぶんぱい)しました。また、海上を航行(こうこう)するアイヌの人たちの船は、西は上ノ国沖(おき)、東は知内沖(おき)で、帆(ほ)を下ろして一礼し、往来(おうらい)するようになりました。 12舘の一つ志苔館。東西152.7m、南北112.7mと長方形をしている(函館市教育委員会蔵 史跡志苔館保存会提供)
12舘(たて)の一つ志苔館(しのりだて)。東西152.7m、南北112.7mと長方形をしている
(函館市教育委員会蔵 史跡志苔館保存会提供)

生産者から漁場労働者(ぎょじょうろうどうしゃ)へ

  文禄(ぶんろく)2(1593)年、蠣崎(かきざき)慶広(よしひろ)(武田信広から5代目)は名護屋(なごや)で豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)、慶長(けいちょう)4(1599)年に大阪で徳川(とくがわ)家康(いえやす)に会いました。この時姓を蠣崎(かきざき)から松前(まつまえ)に改めます。その後、慶長(けいちょう)9(1604)年には家康(いえやす)から黒印状(こくいんじょう)が与えられ、蝦夷地(えぞち)における交易(こうえき)の独占(どくせん)を認(みと)められました。幕藩体制下(ばくはんたいせいか)に入った松前藩(はん)は本州他藩(たはん)と異なり、藩士(はんし)への禄(ろく)に米を用いることができず、主だった家臣には徳川幕府(とくがわばくふ)に承認(しょうにん)されたアイヌの人たちとの交易権(こうえきけん)を地域を限って分与(ぶんよ)しました。これを商場(あきないば)あるいは場所と呼びました。知行主(ちぎょうぬし)(商場(あきないば)を給(きゅう)された藩士(はんし))は、年に1度自(みずか)らの商場(あきないば)へ船を出し、その地域のアイヌの人たちと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却(ばいきゃく)し、その収益(しゅうえき)でくらしをたてました。その後、知行主(ちぎょうぬし)はアイヌの人たちとの交易(こうえき)に要する経費(けいひ)、さらに生活費までを商人から借用(しゃくよう)し、交易(こうえき)によって得(え)た品物を商人に渡(わた)して借金(しゃっきん)の返済(へんさい)にあてました。しかし、商人への借金(しゃっきん)が増えると、知行主(ちぎょうぬし)は一定の金額(きんがく)をとって、商場(あきないば)を商人に請負(うけお)わせるようになりました。これを場所請負制(ばしょうけおいせい)といいます。場所を請負(うけお)った商人は知行主(ちぎょうぬし)と同じように商場(あきないば)でアイヌの人たちと交易(こうえき)を行っていました。しかし、元文5(1740)年ころから始まったといわれる長崎俵物(ながさきたわらもの)(煎海鼠(いりなまこ)、白干鮑(しらほしあわび)、昆布(こんぶ)など)、本州における藍(あい)などの換金作物(かんきんさくもつ)の肥料(ひりょう)となる〆粕(しめかす)などの漁獲物(ぎょかくぶつ)の需要(じゅよう)が高まると、商人自らが漁業を行うようになります。漁業に進出(しんしゅつ)した商人は漁具(ぎょぐ)の改良、新技術(しんぎじゅつ)の導入(どうにゅう)によって、漁獲(ぎょかく)の増大(ぞうだい)をはかるとともに、アイヌの人たちを漁場の労働力(ろうどうりょく)として使役(しえき)するようになりました。ここにおいて、これまで生産者・交易者(こうえきしゃ)であったアイヌの人たちは漁場に隷属(れいぞく)させられた労働者としてくらすことになります。 徳川家康が松前慶広に与えた黒印状
徳川(とくがわ)家康(いえやす)が松前(まつまえ)慶広(よしひろ)に与えた黒印状(こくいんじょう)。
これにより松前藩(まつまえはん)は、蝦夷地(えぞち)における交易(こうえき)の独占(どくせん)を認(みと)められた
(北海道開拓記念館蔵)

シャクシャインの戦いと国後島(くなしりとう)における挙兵(きょへい)

  シャクシャインの戦いは日高地方に生活圏(けん)をもつアイヌの人たち2グループの漁猟権(ぎょりょうけん)をめぐる争いから始まりました。しかし、寛文(かんぶん)9(1669)年には一方の統率者(とうそつしゃ)シャクシャインの呼びかけに呼応(こおう)した蝦夷地(えぞち)のアイヌの人たちと松前藩(まつまえはん)の全面戦争に発展(はってん)しました。戦いはほぼ互角(ごかく)に推移(すいい)し、和睦(わぼく)を結(むす)ぶことになりました。和睦(わぼく)の酒宴(しゅえん)の席でシャクシャインはだまし討ちによって殺害され、アイヌの人たちの戦いは終息(しゅうそく)しました。これによって、アイヌの人たちは松前藩(まつまえはん)に従うことを認めなければなりませんでした。これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢(けいせい)が不利(ふり)とみると、だまし討ちによって戦いを終わらせたことが何度かありました。アイヌの人たちが容易(ようい)にだまし討ちにあった背景(はいけい)には、アイヌの人たちの交易者(こうえきしゃ)としての側面(そくめん)があったことが指摘(してき)されています。アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易(こうえき)は単なる品物の交換(こうかん)ではなく、交易相手(こうえきあいて)との無沙汰(ぶさた)を丁重(ていちょう)に述べるなどの厳粛(げんしゅく)な儀礼(ぎれい)を伴(ともな)ったものです。したがって、和人側から言葉を尽(つ)くした和睦(わぼく)を持ちかけられると、それを一蹴(いっしゅう)せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者(とうそつしゃ)は威儀(いぎ)を正して、その場に臨(いど)みます。戦い相手との再会儀礼(さいかいぎれい)などが滞(とどこお)りなくすみ、緊張(きんちょう)がほぐれたところをだまし討ちにされました。 シャクシャインの戦いのころのアイヌの人たちの地域的統一(『蝦夷地のころ』北海道開拓記念館より転載)
シャクシャインの戦いのころのアイヌの人たちの地域的統一
(『蝦夷地のころ』北海道開拓記念館より転載)
 シャクシャインの戦い以後、和人の優位(ゆうい)がゆるぎないものになります。多くのアイヌの人たちは漁場労働(ぎょじょうろうどう)を強(し)いられ、場所請負人(ばしょうけおいにん)そしてその配下(はいか)の者たちの酷使(こくし)や交易(こうえき)の不正に耐(た)えなければなりませんでした。松前藩による場所の開設(かいせつ)とアイヌの人たちの使役(しえき)は松前の遠隔地(えんかくち)へと広がっていきました。このような状況のもとで、未だアイヌの人たちの自主性が残されていた国後(くなしり)島のアイヌの人たちは、国後場所請負人(くなしりばしょうけおいにん)飛騨屋(ひだや)久兵衛(きゅうべえ)の運上屋(うんじょうや)による酷使(こくし)や不正に立ちあがり、さらに対岸の目梨(めなし)地方(現在の標津地方(しべつちほう))に戦いは広がりましたが、国後と厚岸の首長の説得(せっとく)によって、戦いは収まりました。しかし、松前藩が派遣(はけん)した討伐隊(とうばつたい)は主だった人たちを死刑に、他の人たちも処罰(しょばつ)しました。この戦いよって、松前藩(まつまえはん)は国後島(くなしりとう)や道東部のアイヌの人たちを制圧(せいあつ)し、その支配(しはい)に組み込んでしまいました。この戦いがアイヌの人たちの和人に対する戦いの最後となりました。

政治のはざまで

  徳川幕府(とくがわばくふ)は国後(くなしり)・目梨(めなし)の戦いの10年後、アイヌの人たちの苛酷(かこく)な漁場労働(ぎょじょうろうどう)と不正による場所経営(けいえい)と、ロシアの南下に対する警戒(けいかい)から、寛政(かんせい)11(1799)年に蝦夷地(えぞち)の南半分-東蝦夷地(ひがしえぞち)、そして文化4(1807)年からは松前藩(まつまえはん)を梁川(やながわ)(現在の福島県)に移し、蝦夷地(えぞち)の北半分-西蝦夷地(にしえぞち)と北蝦夷地(きたえぞち)を直接治めました。アイヌの人たちがロシアの懐柔策(かいじゅうさく)にのせられないように、幕府(ばくふ)はアイヌの人たちと公正な交易(こうえき)を行うとともに、本州他藩(たはん)に蝦夷地防備(えぞちぼうび)の兵を派遣(はけん)させました。交易(こうえき)による収益(しゅうえき)は蝦夷地経営(えぞちけいえい)に使いましたが、道路開削(どうろかいさく)、防備体制(ぼうびたいせい)の拡大(かくだい)などは交易(こうえき)の収益(しゅうえき)を上回るものになりました。ロシアに対する警戒心(けいかいしん)も薄(うす)れ、松前藩(まつまえはん)の復領運動(ふくりょううんどう)もあって、文政(ぶんせい)3 (1820)年には蝦夷地(えぞち)は松前藩(まつまえはん)に戻されます。   安政2(1855)年、箱舘(はこだて)へ外国船の寄港(きこう)が認められると、その周辺を幕府が直接治(おさ)めるようになり、翌年には幕府の統治(とうち)は蝦夷地(えぞち)とその周辺(しゅうへん)の島々に及びます。だだし、渡島半島南西部は松前藩領のまま残されました。その目的はロシアに対する防備(ぼうび)の強化のほか、蝦夷地開拓(えぞちかいたく)や殖産興業(しょくさんこうぎょう)にありました。 和風化したアイヌの人たち
和風化したアイヌの人たち
(『箱館より宗谷までの絵図』北海道開拓記念館蔵)
  徳川幕府(とくがわばくふ)は、アイヌの人たちが日本に帰属すること、そしてその居住地が日本領であることをロシアに主張するために、交易(こうえき)や保護(ほご)をとおしてアイヌの人たちを懐柔(かいじゅう)し、さらに松前藩(まつまえはん)が禁じていた笠(かさ)、簑(みの)、草履(ぞうり)の着用を解禁(かいきん)し、さらに髪形(かみがた)、着衣(ちゃくい)、名前なども本州風に改めることを強要(きょうよう)し、耳飾(みみかざ)り、入れずみ、クマの霊送(れいおく)りなどアイヌの人たちの古来(こらい)からの風俗(ふうぞく)、習慣(しゅうかん)を禁じようとしました。とりわけ、2度目の統治(とうち)の際(さい)には、その政策(せいさく)はさらに強化されましたが、アイヌの人たちの反感(はんかん)をかってしまいました。アイヌの人たちが培(つちか)ってきた風俗(ふうぞく)や習慣(しゅうかん)はそのくらしに深く根をおろしており、力をもってしても簡単(かんたん)に変えることができないことをものがたっています。

日本国家への編入(へんにゅう)と北海道開拓

  明治2(1869)年、明治新政府は蝦夷地(えぞち)を北海道と呼び改め、一方的に日本の一部としました。そして、アイヌの人たちを「平民」として戸籍(こせき)を作成し国家に編入(へんにゅう)しましたが、そうする一方で、「旧土人」と呼び表して差別し続けました。   同じ年、北海道を治めるために置かれた開拓使は、アイヌ民族の言語や生活習慣(せいかつしゅうかん)を事実上禁じ、和風化を強制(きょうせい)する政策をとりました。また、アイヌの人たちが利用してきた土地や資源(しげん)を取り上げて国の財産だとしたうえで民間に売り払うことにし、鮭漁(さけりょう)や鹿猟(しかりょう)を禁止したりもしました。脱亜入欧(だつあにゅうおう)・富国強兵(ふこくきょうへい)をめざす国家体制の改編(かいへん)とともに、生業と生活の転換(てんかん)を強(し)いる社会的圧力が急速(きゅうそく)に大きくなっていったのです。
  こうした和人本位の開拓優先政策(かいたくゆうせんせいさく)の結果、アイヌの人たちは食べるものにも困るようになりました。農業を勧奨(かんしょう)する事業が行われたりもしましたが、急に暮らしのしかたを変えるのは多くの場合難(むずか)しいことでした。そして、アイヌの人たちは財産の管理能力(かんりのうりょく)がないと決めつけられ、土地私有や各種資産(かくしゅしさん)にたいする権利が制限されました。
  政府は、明治8(1875)年にロシアとのあいだで樺太(からふと)・千島交換条約(ちしまこうかんじょうやく)を結ぶと、サハリン(樺太(からふと))や千島に住んでいたアイヌの人たちを無理やり北海道や色丹島(しこたんとう)に移住(いじゅう)させました。しかし、移り住んだ人たちは急な生活の変化や病気の流行などに苦しみ、多くの人が亡くなってしまいました。このようなアイヌの人たちの強制的な移住は、その後も各地で行われました。

「北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう)」の制定(せいてい)

  明治19(1886)年には北海道庁が置かれました。道庁は土地と資源(しげん)の民間への引き渡しと開拓(かいたく)をさらに進め、アイヌの人たちの住む場所を狭(せば)めていきました。
  こうした政策の中でアイヌの人たちの困窮(こんきゅう)がいっそう甚(はなはだ)だしくなると、明治32(1899)年に「北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう)」が作られました。この法律は、農業のための土地を「下付(しもつけ)」し、日本語や和人風の習慣(しゅうかん)による教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。
  土地を与えられたアイヌの人の中には農業経営に成功した人もいましたが、農地にすることに失敗して土地を取り上げられたり、はじめから農業に向かない土地を与えられた人が多かったのです。また、アイヌ民族への下付地(しもつけち)は、和人、とりわけ大きな資本を持つ者などに与えられた土地に比べはるかに狭いものでした。「北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう)」によるアイヌ民族への下付地は一戸あたり1万5千坪が上限(じょうげん)でしたが、明治5(1872)年の「北海道土地売貸規則(ほっかいどうとちばいたいきそく)」では和人一人あたりに10万坪、明治30(1897)年の「北海道国有未開地処分法(ほっかいどうこくゆうみかいちしょぶんほう)」では150万坪を限度(げんど)に開墾(かいこん)した土地を無償(むしょう)で払い下げるとしたことと比較するならば明らかな民族差別でした。
  学校の設置にあたっては、子どもに教育を受けさせようと、土地や資金を寄付するアイヌの人たちもいました。しかし学校では、アイヌ語をはじめ独自の文化は否定され、日本語や和人風の生活のしかたを覚えなければなりませんでした。また「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、教育内容にも不当な格差を設けていたことでした。
対雁に強制移住させられたサハリンアイヌの人たち(北海道大学附属図書館蔵)
対雁(ついしかり)に強制移住(きょうせいいじゅう)させられたサハリンアイヌの人たち
(北海道大学附属図書館蔵)

大正期から15年戦争の時代

  1910年代から1920年代にかけては、「大正デモクラシー」ということばに表されるように社会に自由な雰囲気が広がり、アイヌの人たちの活動も活発に行われるようになりました。差別に対する抗議、アイヌ民族が「昔ながら」の暮らしをしているという偏見と無理解への批判(ひはん)、自立して生きる道を探ることへの呼びかけなどが、アイヌ自身によって行われ、民族的な組織(そしき)を結成(けっせい)する動きもありました。町や村の議会議員選挙(ぎかいぎいんせんきょ)で当選する人もいました。
  昭和9(1934)年に「旭川市旧土人保護地処分法(あさひかわしきゅうどじんほごちしょぶんほう)」が制定(せいてい)されましたが、これは今の旭川市近文でアイヌの人たちが住んでいた土地を追い出されそうになった問題に対応(たいおう)してとられた措置(そち)でした。アイヌの人たちは、代表が東京で陳情運動(ちんじょううんどう)をするなどして、土地が取り上げられるのを防(ふせ)ぎましたが、本来下付されるべき土地を共有財産(きょうゆうざいさん)として北海道長官の管理下(かんりか)におくなど、後に問題を残す形で収束(しゅうそく)が図(はか)られました。

第2次大戦後のアイヌ民族の活動

  第2次世界大戦における日本国の敗戦後、アイヌの人たちが社会的地位を高めて誇(ほこ)りある民族となることなどを目ざして、社団法人北海道アイヌ協会(1961年に社団法人北海道ウタリ協会と改称)が設立(せつりつ)されました。そのころ地主から土地を取り上げて小作農に安く売り渡す農地改革(のうちかいかく)が進められましたが、「北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう)」でアイヌの人たちに下付された土地もこの政策(せいさく)により少なからず失なわれてしまいました。北海道アイヌ協会はこれに反対しましたが、アイヌ民族の土地が不当に収奪(しゅうだつ)されてきた歴史的事情(れきしてきじじょう)を考慮(こうりょ)した措置(そち)はなされませんでした。明治期からの一連(いちれん)の施策(しさく)と経済的事由(じゆう)に起因(きいん)する不法な権利移転(けんりいてん)などの結果、アイヌのものとして残っている下付地(しもつけち)は、今では当初の15%未満(みまん)にすぎません。
  1960年代になると、生活上の格差(かくさ)や困窮(こんきゅう)の解消(かいしょう)のために、アイヌの人たちが多く暮らす地域で集会施設(しせつ)(生活館)や共同作業所などを設置(せっち)する環境整備事業(かんきょうせいびじぎょう)が開始(かいし)されました。また、昭和49(1974)年からは、住居・就労(しゅうろう)・修学(しゅうがく)などの面での個人対策も盛り込んだ「北海道ウタリ福祉対策(ふくしたいさく)」が開始されました。これは7ヶ年の計画でしたが、その後も施策(しさく)の重点や名称を変えながら現在まで継続(けいぞく)されています。また、1970年代には独自(どくじ)の文化を保存、継承(けいしょう)するための活動も広がり始めます。
  昭和59(1984)年に北海道ウタリ協会は、アイヌ民族の基本的人権を回復(かいふく)し差別をなくすこと、政治にアイヌ民族代表の意見を直接反映(はんえい)できるようにする特別議席(とくべつぎせき)、教育・文化面における総合的(そうごうてき)な施策実施(しさくじっし)、経済的自立のための農業(のうぎょう)、漁業(ぎょぎょう)、林業、商工業等の諸条件整備(しょじょうけんせいび)などを求めた「アイヌ民族に関する法律」案を作り、提案(ていあん)しました。そして、この新しい法律の制定を北海道や政府、国会などに働きかけていきました。とくに昭和61(1986)年、当時の中曽根(なかそね)康弘(やすひろ)総理大臣(そうりだいじん)が「日本は単一(たんいつ)民族国家」「日本国籍(こくせき)をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言した問題などを契機(けいき)としてアイヌ民族をめぐる議論(ぎろん)や運動が活発(かっぱつ)になっていきました。また、先住民族の権利をめぐる世界の動向(どうこう)に関心が払われるようになり、海外との交流(こうりゅう)も積極的(せっきょくてき)に行われるようになりました。さらに、こうした動きを背景(はいけい)にアイヌ民族として初めての国会議員(ぎいん)が生まれました。

「アイヌ文化振興法(しんこうほう)」の制定(せいてい)
-民族としての誇(ほこ)りが尊重(そんちょう)される社会の実現(じつげん)をめざして-

  新しい法律を求めるアイヌの人たちを中心とした幅(はば)広い運動に応じて、平成9(1997)年、国会は「北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう)」を廃止(はいし)し、新しく「アイヌ文化の振興(しんこう)並びにアイヌの伝統等(でんとうとう)に関する知識(ちしき)の普及(ふきゅう)及び啓発(けいはつ)に関する法律」を制定(せいてい)しました。これは、北海道ウタリ協会が要求していた項目(こうもく)の内で主に文化に関わる面だけを反映したものです。しかし、目的を「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重(そんちょう)される社会の実現(じつげん)を図(はか)り、あわせて我が国の多様(たよう)な文化の発展(はってん)に寄与(きよ)すること」(第1条)としているように、国家の政策(せいさく)がアイヌの人たちの民族性を否認(ひにん)し同化を是としてきた従来(じゅうらい)の姿勢(しせい)から転換(てんかん)することを促(うなが)し、アイヌ文化の振興等(しんこうとう)を図(はか)るための施策(しさく)を推進(すいしん)することを国及び地方公共団体の責務(せきむ)と位置(いち)づけたものとなっています。

国内外の社会の動き

 先住民族は、その土地に古くから原住していながら、今日の国家、社会の中で支配・圧迫を受け不利な立場におかれているという境遇において共通性を有しています。
 近代・現代における世界の激しい動きを振り返るならば、どんな地域のどんな民族も旧来の主要な生業や生活、それらを基礎とした「伝統的」文化になんの変容もないということはありえないと言えるでしょう。しかし、ある民族が自ら志向し選択したのではない変わり方を他から一方的に強いられ、その状態が長い間是正されなかったために、おおきな喪失感や不信感、否定的影響などが幾世代にもわたって継続するという減少は、残念ながら世界各地で見受けられることです。アイヌの人たちの場合も、民族としての集団的な権利が保証されず自主的で多様な発展の可能性が制限された状態が長く続いてきました。
 国連では、世界の先住民族が失った権利をどのようにして回復するかについて、長年、検討が進められてきました。そして、平成19(2007)年9月、国連総会において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されました。この宣言には民族の自決権や土地・資源の権利、知的財産権など、各国が達成すべき基準が明記されています。
 また、国内では、この国連宣言を踏まえて、平成20(2008)年6月、国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択され、この決議を受け、内閣官房長官は、アイヌの人々が「先住民族であるとの認識の下に」アイヌ政策に取り組む旨の政府見解を表明しました。そして、同年7月、政府は「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置しました。
 こうした社会の動きとともに、アイヌの人たちやアイヌ文化に対する一般社会の関心がより一層高まっています。しかし、アイヌの人たちにとって、差別の解消や生活の安定など、解決されていない課題がまだ残されており、このような状態を改めるためにも、、これまでのアイヌ政策が更に推進されるとともに、新たな総合的施策の確立が望まれるところです。