歴史

歴史

 アイヌ文化の成立は12~13世紀ころといわれていますが、私たちがアイヌの人たちを史料のうえで確認できるのはおおよそ15世紀ころからです。そのころ、アイヌの人たちは漁狩猟や植物採取を主な生業にしてくらし、また他地域の人たちと交易を行っていました。

和人(注)がこの島に住み始めた時期は定かではありませんが、15世紀ころにはその居住地は東は鵡川(むかわ)、西は余市(よいち)まで広がり、現在の函館付近には若狭(わかさ-福井県南西部)から商船が来航し、問屋や鍛冶屋も設けられていました。蝦夷地(えぞち=北海道)からは蝦夷三品(えぞさんぴん)と呼ばれていた昆布、干サケ、ニシンや北蝦夷地(樺太(からふと)、現サハリン)を経由した中国産品などが移出され、本州からは鉄製品、漆器、酒などがもたらされました。アイヌの人たちは本州へ移出される品物の直接、間接の生産者であり、交易者でした。

 

注)和人:明治以前においては、本州から渡来してきた人たちをいい、現在は、日本のなかで一番人数の多い人たちを、アイヌの人たちと並べて呼ぶときの呼び名です。

アイヌの人たちとの妥協

 康正(こうせい)2年(1456年)、アイヌの若者が注文した小刀をめぐって志苔(しのり-現在の函館)の鍛冶屋と口論となり、鍛冶屋がその小刀で若者を刺し殺したことをきっかけに、翌年にはコシャマイン親子が立ち上がりました。

 和人の増加に伴い、そのうちの有力者は領主化し、その拠点は舘(たて)と呼ばれています。渡島(おしま)半島南端部には12の舘が点在していました。コシャマイン親子はこれらの舘を次々に破り、2つの舘を残すだけになりました。残った舘の一つ花沢舘(はなざわたて-舘主 蠣崎季繁(かきざきすえしげ))の客将であった武田信広はだまし討ちでコシャマイン親子を破り、全滅の危機を脱しました。この功績で武田信広は蠣崎家を継ぎ、後の松前家の祖になります。しかし、アイヌの人たちと和人の戦いは、その後、約100年にわたって断続的に行われました。これらの戦いのいくつかは蠣崎氏がその統率者をだまし討つことによって終わらせたものもあります。長期に及ぶ戦いの起因はアイヌの人たちと和人の間の政治的あるいは経済的な不和にあったと考えられています。蠣崎氏は和人に対する支配者としての地位を固め、本州からやって来る商船からの徴税権を確保していきましたが、政治的そして軍事的に安定したものではありませんでした。天文(てんぶん)19年(1550年)、「夷狄の商舶往還の法度(いてきのしょうはくおうかんのはっと)」を定め、アイヌの人たちの懐柔と妥協をはかりました。これによって、アイヌの人たちの長(おさ)2人をそれぞれ現在の上ノ国と知内(しりうち)に住まわせ、両地をもって以北をアイヌの人たち、以南を和人の居住域とし、本州商船から徴収した税の一部をそれぞれの長に分配しました。また、海上を航行するアイヌの人たちの船は、西は上ノ国沖、東は知内沖で、帆を下ろして一礼し、往来するようになりました。

12舘の一つ志苔館。東西152.7m、南北112.7mと長方形をしている(函館市教育委員会蔵 史跡志苔館保存会提供)
12舘(たて)の一つ志苔館(しのりだて)。東西152.7m、南北112.7mと長方形をしている
(函館市教育委員会蔵 史跡志苔館保存会提供)

生産者から漁場労働者(ぎょじょうろうどうしゃ)へ

 文禄2(1593)年、蠣崎慶広(よしひろ-武田信広から5代目)は名護屋で豊臣秀吉、慶長4(1599)年に大阪で徳川家康に会いました。この時姓を蠣崎から松前に改めます。その後、慶長9(1604)年には家康から黒印状が与えられ、蝦夷地における交易の独占を認められました。幕藩体制下に入った松前藩は本州他藩と異なり、藩士への禄(ろく)に米を用いることができず、主だった家臣には徳川幕府に承認されたアイヌの人たちとの交易権を地域を限って分与しました。これを商場(あきないば)あるいは場所と呼びました。知行主(ちぎょうぬし-商場を給された藩士)は、年に1度自らの商場へ船を出し、その地域のアイヌの人たちと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し、その収益でくらしをたてました。その後、知行主はアイヌの人たちとの交易に要する経費、さらに生活費までを商人から借用し、交易によって得た品物を商人に渡して借金の返済にあてました。しかし、商人への借金が増えると、知行主は一定の金額をとって、商場を商人に請負わせるようになりました。これを場所請負制(ばしょうけおいせい)といいます。場所を請負った商人は知行主と同じように商場でアイヌの人たちと交易を行っていました。しかし、元文5(1740)年ころから始まったといわれる長崎俵物(ながさきたわらもの-煎海鼠(いりなまこ)、白干鮑(しらほしあわび)、昆布など)、本州における藍などの換金作物の肥料となる〆粕(しめかす)などの漁獲物の需要が高まると、商人自らが漁業を行うようになります。漁業に進出した商人は漁具の改良、新技術の導入によって、漁獲の増大をはかるとともに、アイヌの人たちを漁場の労働力として使役するようになりました。ここにおいて、これまで生産者・交易者であったアイヌの人たちは漁場に隷属させられた労働者としてくらすことになります。 徳川家康が松前慶広に与えた黒印状
徳川家康が松前慶広(よしひろ)に与えた黒印状。
これにより松前藩は、蝦夷地における交易の独占を認められた
(北海道開拓記念館蔵)

シャクシャインの戦いと国後島(くなしりとう)における挙兵

 

シャクシャインの戦いは日高地方に生活圏をもつアイヌの人たち2グループの漁猟権をめぐる争いから始まりました。しかし、寛文9(1669)年には一方の統率者シャクシャインの呼びかけに呼応した蝦夷地のアイヌの人たちと松前藩の全面戦争に発展しました。戦いはほぼ互角に推移し、和睦を結ぶことになりました。和睦の酒宴の席でシャクシャインはだまし討ちによって殺害され、アイヌの人たちの戦いは終息しました。これによって、アイヌの人たちは松前藩に従うことを認めなければなりませんでした。

 これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢が不利とみると、だまし討ちによって戦いを終わらせたことが何度かありました。アイヌの人たちが容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌの人たちの交易者としての側面があったことが指摘されています。アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易は単なる品物の交換ではなく、交易相手との無沙汰を丁重に述べるなどの厳粛な儀礼を伴ったものです。したがって、和人側から言葉を尽くした和睦を持ちかけられると、それを一蹴せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者は威儀(いぎ)を正して、その場に臨みます。戦い相手との再会儀礼などが滞りなくすみ、緊張がほぐれたところをだまし討ちにされました。

 シャクシャインの戦い以後、和人の優位がゆるぎないものになります。多くのアイヌの人たちは漁場労働を強いられ、場所請負人そしてその配下の者たちの酷使や交易の不正に耐えなければなりませんでした。松前藩による場所の開設とアイヌの人たちの使役は松前の遠隔地へと広がっていきました。このような状況のもとで、未だアイヌの人たちの自主性が残されていた国後島のアイヌの人たちは、国後場所請負人飛騨屋久兵衛(ひだやきゅうべえ)の運上屋による酷使や不正に立ちあがり、さらに対岸の目梨(めなし)地方(現在の標津(しべつ)地方)に戦いは広がりましたが、国後と厚岸(あっけし)の首長の説得によって、戦いは収まりました。しかし、松前藩が派遣した討伐隊は主だった人たちを死刑に、他の人たちも処罰しました。この戦いよって、松前藩は国後島や道東部のアイヌの人たちを制圧し、その支配に組み込んでしまいました。この戦いがアイヌの人たちの和人に対する戦いの最後となりました。

シャクシャインの戦いのころのアイヌの人たちの地域的統一(『蝦夷地のころ』北海道開拓記念館より転載)
シャクシャインの戦いのころのアイヌの人たちの地域的統一
(『蝦夷地のころ』北海道開拓記念館より転載)
 シャクシャインの戦い以後、和人の優位(ゆうい)がゆるぎないものになります。多くのアイヌの人たちは漁場労働(ぎょじょうろうどう)を強(し)いられ、場所請負人(ばしょうけおいにん)そしてその配下(はいか)の者たちの酷使(こくし)や交易(こうえき)の不正に耐(た)えなければなりませんでした。松前藩による場所の開設(かいせつ)とアイヌの人たちの使役(しえき)は松前の遠隔地(えんかくち)へと広がっていきました。このような状況のもとで、未だアイヌの人たちの自主性が残されていた国後(くなしり)島のアイヌの人たちは、国後場所請負人(くなしりばしょうけおいにん)飛騨屋(ひだや)久兵衛(きゅうべえ)の運上屋(うんじょうや)による酷使(こくし)や不正に立ちあがり、さらに対岸の目梨(めなし)地方(現在の標津地方(しべつちほう))に戦いは広がりましたが、国後と厚岸の首長の説得(せっとく)によって、戦いは収まりました。しかし、松前藩が派遣(はけん)した討伐隊(とうばつたい)は主だった人たちを死刑に、他の人たちも処罰(しょばつ)しました。この戦いよって、松前藩(まつまえはん)は国後島(くなしりとう)や道東部のアイヌの人たちを制圧(せいあつ)し、その支配(しはい)に組み込んでしまいました。この戦いがアイヌの人たちの和人に対する戦いの最後となりました。

政治のはざまで

 

徳川幕府は国後(くなしり)・目梨(めなし)の戦いの10年後、アイヌの人たちの苛酷な漁場労働と不正による場所経営と、ロシアの南下に対する警戒から、寛政11(1799)年に蝦夷地の南半分-東(ひがし)蝦夷地、そして文化4(1807)年からは松前藩を梁川(やながわ-現在の福島県)に移し、蝦夷地の北半分-西(にし)蝦夷地と北(きた)蝦夷地を直接治めました。アイヌの人たちがロシアの懐柔策にのせられないように、幕府はアイヌの人たちと公正な交易を行うとともに、本州他藩に蝦夷地防備の兵を派遣させました。交易による収益は蝦夷地経営に使いましたが、道路開削、防備体制の拡大などは交易の収益を上回るものになりました。ロシアに対する警戒心も薄れ、松前藩の復領運動もあって、文政4 (1821)年には蝦夷地は松前藩に戻されます。

 安政2(1855)年、函館へ外国船の寄港が認められると、その周辺を幕府が直接治めるようになり、翌年には幕府の統治は蝦夷地とその周辺の島々に及びます。だだし、渡島半島南西部は松前藩領のまま残されました。その目的はロシアに対する防備の強化のほか、蝦夷地開拓や殖産興業にありました。
和風化したアイヌの人たち
和風化したアイヌの人たち
(『箱館より宗谷までの絵図』北海道開拓記念館蔵)
  徳川幕府は、アイヌの人たちが日本に帰属すること、そしてその居住地が日本領であることをロシアに主張するために、交易や保護をとおしてアイヌの人たちを懐柔し、さらに松前藩が禁じていた笠、簑(みの)、草履(ぞうり)の着用を解禁し、さらに髪形、着衣、名前なども本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れずみ、クマの霊送りなどアイヌの人たちの古来からの風俗、習慣を禁じようとしました。とりわけ、2度目の統治の際には、その政策はさらに強化されましたが、アイヌの人たちの反感をかってしまいました。アイヌの人たちが培ってきた風俗や習慣はそのくらしに深く根をおろしており、力をもってしても簡単に変えることができないことをものがたっています。

日本国家への編入(へんにゅう)と北海道開拓

 

 明治2(1869)年、明治新政府は蝦夷地を北海道と呼び改め、一方的に日本の一部としました。そして、アイヌの人たちを「平民」として戸籍を作成し国家に編入しましたが、そうする一方で、「旧土人」と呼び表して差別し続けました。

 同じ年、北海道を治めるために置かれた開拓使は、アイヌ民族の言語や生活習慣を事実上禁じ、和風化を強制する政策をとりました。また、アイヌの人たちが利用してきた土地や資源を取り上げて国の財産だとしたうえで民間に売り払うことにし、サケ漁やシカ猟を禁止したりもしました。脱亜入欧・富国強兵をめざす国家体制の改編とともに、生業と生活の転換を強いる社会的圧力が急速に大きくなっていったのです。

 こうした和人本位の開拓優先政策の結果、アイヌの人たちは食べるものにも困るようになりました。農業を勧奨する事業が行われたりもしましたが、急に暮らしのしかたを変えるのは多くの場合難しいことでした。そして、アイヌの人たちは財産の管理能力がないと決めつけられ、土地私有や各種資産にたいする権利が制限されました。

 政府は、明治8(1875)年にロシアとのあいだで樺太・千島交換条約を結ぶと、サハリン(樺太)や千島に住んでいたアイヌの人たちを無理やり北海道や色丹島(しこたんとう)に移住させました。しかし、移り住んだ人たちは急な生活の変化や病気の流行などに苦しみ、多くの人が亡くなってしまいました。このようなアイヌの人たちの強制的な移住は、その後も各地で行われました。

「北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう)」の制定(せいてい)

 

明治19(1886)年には北海道庁が置かれました。道庁は土地と資源の民間への引き渡しと開拓をさらに進め、アイヌの人たちの住む場所を狭めていきました。

 こうした政策の中でアイヌの人たちの困窮がいっそう甚だしくなると、明治32(1899)年に「北海道旧土人保護法(きゅうどじんほごほう)」が作られました。この法律は、農業のための土地を「下付(しもつけ)」し、日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。

 土地を与えられたアイヌの人の中には農業経営に成功した人もいましたが、農地にすることに失敗して土地を取り上げられたり、はじめから農業に向かない土地を与えられた人が多かったのです。また、アイヌ民族への下付地(しもつけち)は、和人、とりわけ大きな資本を持つ者などに与えられた土地に比べはるかに狭いものでした。「北海道旧土人保護法」によるアイヌ民族への下付地は一戸あたり1万5千坪が上限でしたが、明治5(1872)年の「北海道土地売貸規則(とちばいたいきそく)」では和人一人あたりに10万坪、明治30(1897)年の「北海道国有未開地処分法」では150万坪を限度に開墾した土地を無償で払い下げるとしたことと比較するならば明らかな民族差別でした。

 学校の設置にあたっては、子どもに教育を受けさせようと、土地や資金を寄付するアイヌの人たちもいました。しかし学校では、アイヌ語をはじめ独自の文化は否定され、日本語や和人風の生活のしかたを覚えなければなりませんでした。また「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、教育内容にも不当な格差を設けていたことでした。
対雁に強制移住させられたサハリンアイヌの人たち(北海道大学附属図書館蔵)
対雁(ついしかり)に強制移住させられたサハリンアイヌの人たち
(北海道大学附属図書館蔵)

大正期から15年戦争の時代

  

 1910年代から1920年代にかけては、「大正デモクラシー」ということばに表されるように社会に自由な雰囲気が広がり、アイヌの人たちの活動も活発に行われるようになりました。差別に対する抗議、アイヌ民族が「昔ながら」の暮らしをしているという偏見と無理解への批判、自立して生きる道を探ることへの呼びかけなどが、アイヌ自身によって行われ、民族的な組織を結成する動きもありました。町や村の議会議員選挙で当選する人もいました。

 昭和9(1934)年に「旭川市旧土人保護地処分法」が制定されましたが、これは今の旭川市近文でアイヌの人たちが住んでいた土地を追い出されそうになった問題に対応してとられた措置でした。アイヌの人たちは、代表が東京で陳情運動をするなどして、土地が取り上げられるのを防ぎましたが、本来下付されるべき土地を共有財産として北海道長官の管理下におくなど、後に問題を残す形で収束が図られました。

第2次大戦後のアイヌ民族の活動

 

 第2次世界大戦における日本国の敗戦後、アイヌの人たちが社会的地位を高めて誇りある民族となることなどを目ざして、社団法人北海道アイヌ協会(1961年に社団法人北海道ウタリ協会と改称)が設立されました。そのころ地主から土地を取り上げて小作農に安く売り渡す農地改革が進められましたが、「北海道旧土人保護法」でアイヌの人たちに下付された土地もこの政策により少なからず失われてしまいました。北海道アイヌ協会はこれに反対しましたが、アイヌ民族の土地が不当に収奪されてきた歴史的事情を考慮した措置はなされませんでした。明治期からの一連の施策と経済的事由に起因する不法な権利移転などの結果、アイヌのものとして残っている下付地は、今では当初の15%未満にすぎません。

 1960年代になると、生活上の格差や困窮の解消のために、アイヌの人たちが多く暮らす地域で集会施設(生活館)や共同作業所などを設置する環境整備事業が開始されました。また、昭和49(1974)年からは、住居・就労・修学などの面での個人対策も盛り込んだ「北海道ウタリ福祉対策」が開始されました。これは7ヵ年の計画でしたが、その後も施策の重点や名称を変えながら現在まで継続されています。また、1970年代には独自の文化を保存、継承するための活動も広がり始めます。

 昭和59(1984)年に北海道ウタリ協会は、アイヌ民族の基本的人権を回復し差別をなくすこと、政治にアイヌ民族代表の意見を直接反映できるようにする特別議席、教育・文化面における総合的な施策実施、経済的自立のための農業、漁業、林業、商工業等の諸条件整備などを求めた「アイヌ民族に関する法律」案を作り、提案しました。そして、この新しい法律の制定を北海道や政府、国会などに働きかけていきました。とくに昭和61(1986)年、当時の中曽根康弘総理大臣が「日本は単一民族国家」「日本国籍をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言した問題などを契機としてアイヌ民族をめぐる議論や運動が活発になっていきました。また、先住民族の権利をめぐる世界の動向に関心が払われるようになり、海外との交流も積極的に行われるようになりました。さらに、こうした動きを背景にアイヌ民族として初めての国会議員が生まれました。

「アイヌ文化振興法」の制定
-民族としての誇りが尊重される社会の実現(じつげん)をめざして-

 新しい法律を求めるアイヌの人たちを中心とした幅広い運動に応じて、平成9(1997)年、国会は「北海道旧土人保護法」を廃止し、新しく「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」を制定しました。これは、北海道ウタリ協会が要求していた項目の内で主に文化に関わる面だけを反映したものです。しかし、目的を「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」(第1条)としているように、国家の政策がアイヌの人たちの民族性を否認し同化を是としてきた従来の姿勢から転換することを促し、アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進することを国及び地方公共団体の責務と位置づけたものとなっています。

国内外の社会の動き

 

 先住民族は、その土地に古くから原住していながら、今日の国家、社会の中で支配・圧迫を受け不利な立場におかれているという境遇において共通性を有しています。

 近代・現代における世界の激しい動きを振り返るならば、どんな地域のどんな民族も旧来の主要な生業や生活、それらを基礎とした「伝統的」文化になんの変容もないということはありえないと言えるでしょう。しかし、ある民族が自ら志向し選択したのではない変わり方を他から一方的に強いられ、その状態が長い間是正されなかったために、おおきな喪失感や不信感、否定的影響などが幾世代にもわたって継続するという現象は、残念ながら世界各地で見受けられることです。アイヌの人たちの場合も、民族としての集団的な権利が保証されず自主的で多様な発展の可能性が制限された状態が長く続いてきました。

 国連では、世界の先住民族が失った権利をどのようにして回復するかについて、長年、検討が進められてきました。そして、平成19(2007)年9月、国連総会において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されました。この宣言には民族の自決権や土地・資源の権利、知的財産権など、各国が達成すべき基準が明記されています。

 また、国内では、この国連宣言を踏まえて、平成20(2008)年6月、国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択され、この決議を受け、内閣官房長官は、アイヌの人々が「先住民族であるとの認識の下に」アイヌ政策に取り組む旨の政府見解を表明しました。そして、同年7月、政府は「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置、平成21(2009)年7月に報告書の提出を受けました。

 こうした社会の動きとともに、アイヌの人たちやアイヌ文化に対する一般社会の関心がより一層高まっています。しかし、アイヌの人たちにとって、差別の解消や生活の安定など、解決されていない課題がまだ残されており、このような状態を改めるためにも、これまでのアイヌ政策が更に推進されるとともに、新たな総合的施策の確立が望まれるところです。

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